星の王子さま星になる [つぶやいてみる]
『笑点』の司会として有名な五代目三遊亭圓楽師匠。若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝と共に四天王と呼ばれた素晴らしい落語家でした。今でも落語界に、お茶の間に、大きな影響を残していることは間違いありません。
実家は浄土宗の寺院(日照山不退寺易行院。通称:助六寺)。現役時の芸能事務所の所属は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは、自身の長男が代表取締役を務める個人事務所。
生家である易行院はかつて浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興(現在の住所上は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線竹の塚駅)に移転しており、圓楽自身も長くこの地に住んでいた。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。血液型はAB型。かつて演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を務めていたことで知られる。身長177cmと長身。
端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊り』。
幼い頃は病弱で腎炎、結核との闘病を経験する。腎臓の病はその後も水面下で進行し66歳の時に腎不全を発症。以後は週3回の人工透析を受けるようになる。
若き自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「二つ目の分際で名人とは生意気でげす」と怒られキャッチフレーズを「星の王子さま」に変更。
1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い1983年1月9日から司会者として番組に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたという(このためか司会就任後しばらくは様々な紋付を着ており、徐々に紺の色紋付に定着する)。
就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした都々逸をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「よろずガイダンス」というコーナーで落語にまるわる話を披露するなどしていたが、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。
大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平の2人だけ。1988年に弟子の三遊亭好楽が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。
子供の頃から欠かさず見ていた 笑点 も一つの区切りになった気がする
圓楽も もう見れないとは 淋しい限りだ 。
名前は 残り継がれていくが 五代目 圓楽 星の王子様は 星になったとさ・・・
ご冥福をお祈り致します 。
* 肺がんのため2009年10月29日死去・76歳
(笑点を見ると司会者が変わる 歌丸師匠も具合い悪そうだ
フッと 圓楽さんが懐かしくなり UPしてみました。)
開放的な性格から、古典が好きだとは思えなかった。
以外だぁ~!
私もよく「笑天」見てましたよ。
最近は歳で「昇天」しそうですが・・・
by タラオのパパ (2010-03-08 07:11)
タラオのパパさま
いやだ~パパさん~うさこは これでも
落語ファンなんですよ~ラジオから流れる お囃子・・・
落語の語り 頭の中に光景が見えたものです。え!
ラジオしかない世代か?て 違います・・・アラフォーですか
ら~ 耳だけだと 想像力は増すんです~幼い頃から
落語は 親しんできましたよ~圓楽の寺は実家から
近かったから・・・余計です パパさん~棺桶は 作って
ないでしょうね~
by みうさぎ (2010-03-08 07:37)